はじめまして、オーストラリアでおたんこナース高橋奈央子です。
海外でナースなんて無理だよと笑われ続けながら、幼少期から思い描いてきた「海外で生活する私」を31歳で実現しました。
現在、シドニーの公立病院の放射線科外来で、Clinical Nurse Specialist(CNS)として職場の師長とスタッフを支えるリエゾン役を務めています。
さらにプライベートでは「あなたのなりたいアナタになる」をモットーにビジネスを展開しています。活動の場は、SNSやブログ、Youtubeの発信活動に始まり、医療系コミュニティTAKAMIのコンサルティング、ビジネスコンサルティング、海外の医療現場を届ける「おたんこ英語塾」、自分軸で生きたい人が集う「スナックおたんこ」、セミナー講師、留学サポートなど多岐に渡ります。
そんな高橋奈央子を見て、よく言われるのが
「高橋奈央子はどうやらもともと優秀で、めちゃくちゃ明るくてポジティブ。きっと恵まれた環境で育った帰国子女かなんかだろう。だから、あの人にできても、どうせ私にはできっこない。住む世界が違う人なんだ。」
今日は、そんな誤解を説いて、このプロフィールを読み終えた頃には、あなたの「どうせ私には無理」という考えが、「高橋奈央子にできるなら、私にだってできる!高橋奈央子と一緒に実現する!」に変わることを願っています。
あなたの一度きりの人生は、あと何年続くか、どんな転機を迎えるか、誰もわかりません。だからこそ、高橋奈央子と一緒に今を悔いなく生きるためのライフデザインを一緒にしていきましょう!
あなたは、一人ではありません。
もうすでに、あなたはチームおたんこメンバーです。
オーストラリアに来て、留学エージェントの代表に言われた言葉が、
結局は「オーストラリアでおたんこナース高橋奈央子」が誕生するきっかけをつくりました。
そんなことになろうとは、当時それを鼻で笑いながら言い放った彼には、想像もつかないでしょう。
誰かにそれは無理と言われたら、無理じゃなかったって証明をしたくなる。
By 高橋奈央子
オーストラリアでナースになるまで、その他にもたくさん笑われ続けました。
「ねぇ、オーストラリアの医療ってそんなに進んでるの?」
「なんで日本でキャリアップすることは考えないの?」
「あなたのやりたい事をすべて達成するには、一回の人生では無理よ。三回くらい死なないと」
でも言われるたびに、もっともっと海外に出ていきたいと思い、それならなおさらチャレンジしたいと思うようになりました。
これだけ聞くと、高橋奈央子はパワフルで、前向きで、優等生なイメージがするかも知れません。でも実際は、小さい頃から泣き虫でいじめられっ子、人一倍物覚えが悪くてバカにされてばかりでした。
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1.好奇心と語学は父親ゆずり
大学ではスペイン語を学び、若い頃は海外旅行の添乗員として世界を旅した父からは、こんな話をいつもお風呂で聞いていました。
「なおちゃん、アメリカではステーキが美味しくて、スイスは緑と青のコントラストが最高で、エジプトのピラミッドは1段がお父さんより大きくて、スペインの闘牛は迫力があって、カジノはやっぱりベガスが最高で、スーツケースはホテルに置いてても壊されちゃうのが当たり前で、お父さんは一度ピストルを突きつけられたことがあって、ドイツはやっぱりビールが美味しいんだ。そして、お父さんは英語が上手でみんなびっくりするんだよ。」
By 高橋奈央子の父
子供ながらに、高橋奈央子は父親とのお風呂タイムでいつも未来を夢見ました。
将来、世界を飛び回る自分の姿を。残念ながら父の希望通り、
キャビンアテンダントになることはありませんでしたが。
ちなみに父は、高橋奈央子が25歳のころ、享年58歳で他界。
お父さんっこだった高橋奈央子は、しばらく暗黒の時代を経験したりもしました。
2.努力家は母親ゆずり
今思うと、頭もよくなかったし、いろんな意味でフツーからはみ出していた高橋奈央子は小さい頃から何かとイジメのターゲットなっていました。
母は、一番の味方で理解者で応援団でした。
「イジメられるのが嫌だったら、その子達を勉強で見返してやりなさい。みんなが勉強する2,3倍も勉強したら追い越せるから」
By 高橋奈央子の母
実際には、勉強をがんばってクラスで一番になったところでイジメはおさまりませんでした。
男子によくイジメられ、鼻血を流して家に帰ったり、顔面の骨にヒビが入るほどの暴力もありました。
母は、イジメに対応してくれない先生達に見切りをつけ、イジメっ子のお家に行って話をすることも多々ありました。
勤勉な読書家だった母は、努力することの大切さをヘレン・ケラーや野口英世、二宮金次郎など偉人の伝記を通してよく教えてくれました。
「努力は報われる」「頑張れば道は開ける」と疑うことのない、転んでもいくらでも立ち上がる高橋奈央子の精神は母によって培われたのです。
3.面倒見の良さは弟たちのお陰
高橋奈央子には3つ下の双子の弟がいます。
つまり、長女としてちやほやされたのは生まれて3年間だけで、弟たちが生まれてからは、放置どころか「小さなお母さん」として弟たちの面倒をみる日々が続きました。
高橋奈央子の面倒見の良さというかアネゴ肌なところは、この手のかかった弟たちの存在があったからでしょう。
そんなアネゴ肌は、「同じ様に海外でナースになりたい人たちのために情報発信をしよう」という思いとなり、2013年からスタートしたブログやSNS等による情報発信は現在でも続いているのです。
現在は、海外でナースになりたい人だけでなく、今いる場所で輝きたい人、自分軸でライフデザインをしたい人の共感も得て、現在の活動につながっています。
日本で看護師として4年間働き、
看護師として海外で本当に働きたいと思うのかどうかを確かめてみるために確かめるための行き先は、オーストラリア。
3月に退職して地元秋田に帰った高橋奈央子を待ち受けていたのは、「お父さんは、悪性リンパ腫ステージ4です」という知らせでした。
海の向こうに対するあこがれを持つきっかけをつくった父は、皮肉にも高橋奈央子のオーストラリア進出計画を大きく狂わせたのです。
父は半年の闘病を経て、他界。
そこでさらに高橋奈央子を待っていたのは、家族の誰も継ぐ予定のなかったタクシー会社経営というチャレンジ。
全く会社経営も知らない高橋奈央子と母が、その後3年近く従業員40人ほどのタクシー会社経営をスムーズにできるわけもありません。
父がなくなったショックと、自分の人生の狂い方に絶望し、母親とは家でも会社でも喧嘩ばかり。
父のかつての通勤ルートを運転しながら、号泣しながら会社に出勤する日もよくありました。
さらに、タクシー会社経営から見える世の中はあまりにも私利私欲にまみれた汚れた世界で、ますます気持ちの荒む毎日でした。
でも、そんな毎日を変えたのは、勉強熱心だった母が勧めてくれた、
東京のタクシー会社経営者向けセミナーでした。
そこで、前向きに、斬新に、社員と会社を盛り上げる経営者の方々に出会い、刺激を受けました。
高橋奈央子は死んだ社長の娘として会社経営をするのではなく、専務高橋奈央子として社員と向き合うことを決意しました。
そこから、母との連携ですこしずつ経営状況も改善し、最終的には売却の話が成立しました。
置かれた場所をなげく前に、置かれた場所でまずは一花咲かせる努力をしよう。
By 高橋奈央子
秋田でタクシー会社経営をしながら、始めた趣味サーフィンを楽しむためにも、ワーキングホリデー先をオーストラリアのシドニーに決定しました。
会社経営が忙しくて、たいしてリサーチもせず、なんとなく決めた留学エージェント(2010年には倒産しています)に「簡単にアシスタントナースのお仕事ができます」という言葉を信じてシドニー入りました。
そこで待ち受けていたのは、聞いてたことと実際が全然違うという現実。
人任せで渡豪した自分のミスであると素直に受け入れ、シドニーで職探しを3ヶ月しました。
英語は昔から得意で外国語大学進学も考えていたほどでしたので、なんとかなるだろうと前向きに就活しましたが、現実は甘くありませんでした。
今考えると、あまりにも無謀でタイミングも最悪の就活にミラクルは起こりませんでした。
最初の三ヶ月は語学学校に通ったので新鮮でしたが、その後は3ヶ月も職なし、サーフィン三昧。
3年間、タクシー会社を経営しながら夢見た、オーストラリア生活は半年でなんだかパッとしないものになったのです。
オーストラリアにようやくこれたのに、なんだか中途半端な人間になってしまった気分でした。
そこで、アシスタントナースではなく、オーストラリアで正看護師になってやろう!
計画変更を決意したのです。
そこには、サーフィンを通して出会った自分の人生を楽しむオーストラリア人たちの価値観が大きく影響しています。
冒頭でも触れたように、オーストラリアで正看護師登録に計画を変更し、エージェントの助けも借りずに、自分一人で語学学校に申し込みをしてメルボルンに行こうとしている高橋奈央子をエージェントスタッフは冷ややかに見ていました。
「まぁ、無理だと思うけど、がんばって」そんなことを言う人がいたから、高橋奈央子はその後、英語のテストで不合格になろうが、ビザが切れて帰国することになろうが、がんばれたのです。
OETという試験は合計4回受験、医療英語の勉強をして約1年近くテストをクリアするまでに時間がかかりました。
思ったより、はるかに時間がかかり、精神的にも追い込まれ、吐きそうになることもありましたが、周囲の「どうせ無理だよ」という言葉がいつでも原動力でした。
だから、無理だと言う人、私の挑戦を笑う人は高橋奈央子の原動力であり、感謝すべき存在なのです。
オーストラリアで看護師登録が終了したのが2011年。
「後は仕事をみつけるだけだー!」と意気揚々と就活を始めました。
でも、そこで待ち構えていたのは、人生初の就職難。
それもそのはずです。
外国人である高橋奈央子は、オーストラリアでナースとしての経験つまり信用がゼロな上に、病院に就労ビザをスポンサーしてもらう(つまり病院に「お金を出してください」とお願いする)必要があり、最初からオーストラリア人に比べて圧倒的に不利な戦いを強いられました。
履歴書の書き方からすでに就活の明暗を分け、面接ではいかに自己セールスができるかが問われ、倍率は20倍、30倍もザラなオーストラリの看護就活は3ヶ月続きました。
履歴書を20箇所に送って、ようやく面接に1回呼ばれても、緊張でガチガチ、不採用の連絡すら来ない。
これが厳しい現実でした。
それでも、最終的に7箇所面接を受け、4箇所からオファーをもらい、日本では経験したことのない放射線科外来(アンギオカテーテル室)を職場として選んだのです。
この就職氷河期を通し、高橋奈央子は外国人ナースという逆風をどうやったら追い風にできるのか、つまり暗闇にいかに光を見出すかという視点ができたのです。
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2008年に渡豪して、正看護師として働き出すまでに3年がかかり、これでようやく夢がかなったと幸せを感じながら、お仕事1日目。
今でも、忘れられないほどスタッフの英語がさっぱりわかりませんでした。
人生で一番勉強したと言いきれるほど英語を猛勉強したのに、現場に出てみたら、英語ネイティブなスタッフや患者さんの容赦ない英語フルスピード会話に圧倒されるばかり。
オーストラリアのナース人生初日には、「尿器を持ってきて!」が理解できず、患者さんを失禁させてしまいました。
翌週には、電話対応を避けていることが同僚にバレて、「3日間電話対応のみの刑」を言い渡されたこともあるほど、英語がわからない人間になってしまい、海外で働くことの厳しさを知ったのでした。
いったい私はここでナースが務まるのか?
という不安はつかの間、ちょっと英語が苦手だけど、仕事はまじめ、でもおっちょこちょいな高橋奈央子は200人以上いる放射線科外来の同僚たちに愛され、英語の壁はいつしかなくなりました。
これまでの人生で「なにクソ!」と這い上がってきたせいか、気づけば、英語ネイティブを相手に直球ストレートな会話のやりとりが上手なトラブルシューターとして重宝がられるようになったのです。
高橋奈央子は、オーストラリアで働き始めた頃にお付き合いしていた、ベトナム系オーストラリア人と2013年に結婚しました。
当時33歳の高橋奈央子は、結婚に憧れるというよりは、今の年齢で付き合っている人と結婚するもんなんだろうなと思っていました。
でも、家族観が全く違った夫とは、ケンカが絶えず、結局2年目の結婚記念日を祝う旅行に出発する直前に、夫から離婚を切り出され、あっさり離婚が決まりました。
今まで、諦めるのは負けだと思って努力し続けることしか選択肢になかった高橋奈央子にとって、喧嘩が絶えない結婚生活を諦めて離婚するというのは新境地でした。
「努力の結果、無理ならば諦める」「自分軸を大切にする」ということも立派な決断であると理解できた今、「やらないこと」「やめること」を決断する力は、公私ともにやりたいことがたくさんある高橋奈央子のライフデザインに役立っています。
2019年に結婚したニュージーランド人の夫は、高橋奈央子と同じバツイチ。
前妻との間に、子供もいます。
現在、そんな夫と夫婦や家族のあり方を日々考えさせられる中、今まで気づかなかった高橋奈央子の価値観や強さや弱さに向き合っています。
想像がつく通り楽しいことばかりの結婚生活ではありません。
夫にイライラすることも多々ありますが、不完全な人間同士がいかに幸せな人生をともに送るのかを考えるためにはもってこいのパートナーです。
そして何より、夫の溢れんばかりの愛情表現と感謝の言葉に癒やされたり、救われております。
また、日本人である高橋奈央子とニュージーランド人である夫が、今後どこでどうやって家族という形を築くのか。それを考えると、私達の人生は一つの冒険のようでワクワクします。
2017年にClinical Nurse Specialist(CNS)になって、ナースとして自分の強みを最大に生かした、臨床教育に燃えていた高橋奈央子に訪れた看護師人生最大の試練、それは9ヶ月にわたり師長代理を勤めたことでした。
日本で経験したタクシー会社を経営は、間違いなく管理職になるための思考転換に役立ちました。
まさか、タクシー会社で得た経験がナース高橋奈央子を助ける日が来るとは思ってもいませんでした。
人生は本当に面白いものですね。
人、モノ、金を管理するセンスがあると、看護管理部からも評価された一方、チャレンジも山程ありました。
当時、放射線科外来は規模拡大中で、そこに看護師の補充が追いついていない(最大マイナス7人)という大問題を抱えていました。
人事採用、混乱する現場のトラブルシューティング、スタッフ教育の課題など、どこに行ってもチャレンジばかり、どこにいっても質問や相談ばかりが待ち受ける毎日でした。
「こんなに私って弱かったのか?」とびっくりするほど、師長という仕事には挑戦が多く、私はほぼ毎日オフィスで泣きながら、やってもやっても増える仕事に追い詰められていました。
そして、終いに仕事を辞めることばかり考えるようになりました。
ストレスもたまる一方で、体調も崩してばかりでした。
わらにもすがる思いでこの状況を脱したいと思って通い始めた、メディテーション・スタジオが新・高橋奈央子の誕生につながったのです。
今まで自分自身に対しても、人に対しても「どうして?」「なんで?」と理解出来ないもどかしさや、期待通りに進まないことに怒りや葛藤がありましたが、メディテーションを習慣化することであるがままを受け入れられるようになったのです。
さらにオフィス街にあるメディテーション・スタジオには会社の経営者や管理職、科学者やダンサーも通っており、普段は出会えない人たちとの出会いも刺激的でした。
自己受容や自己愛を育てたり、あるがままを受け入れることに取り組む仲間との出会いも、高橋奈央子を人として看護師として成長させたのです。
普段とは違う環境に身を置き、いつもとは違う仲間とつながることは苦境の突破につながる。
By 高橋奈央子
2019年には、シドニー地区の公立病院で開催されたメディテーションのファシリテーター養成講座を受講し、現在は医療従事者のココロと体のバランスを取るための院内プロジェクトに参加しています。
1回目の結婚で夫とすれ違うことが多く、海外ナースとして情報発信をして満たされない心を埋めるために始めたブログが、高橋奈央子のビジネスの原点です。
仕事もプレイベートも過去も現在も赤裸々に綴るブログは、母には不評でしたがたくさんのフォロワーさんと高橋奈央子をつないでくれました。
そこから、シドニーや日本各地で海外の看護や医療現場についてセミナーを自主開催するようになり、参加者さんとの交流は高橋奈央子の存在意義をどんどん私自身に気づかせてくれました。
そして、2018年に高橋奈央子をビジネスの世界に導いてくれた、素晴らしい出会いがありました。それが、心電図新世界セミナーの谷口総志さんです。
谷口総志さんは、今までノウハウを持たずに発信や講演活動していた高橋奈央子にビジネス構築の仕方を教えてくれただけでなく、高橋奈央子が今までの活動を通して知らずに築いてきたファンとの信頼関係の価値についても気づかせてくれました。
今まで不器用にやってきた私なりのサービスをもっと効率的に、広く、確実に届けられるマインドを与えてくれたのが谷口総志さんです。
そしてさらに、今までの波乱万丈な人生で学んだことをすべて活かせる場、「医療系コミュニティTAKAMI」で高橋奈央子をコンサルタントとして起用してくださったのも、谷口総志さんなのです。
退屈を嫌い、刺激やワクワクを追い求める高橋奈央子は、自分自身でもどこに向かうのかわかりません。でも、一つだけ言えるのは、より自分軸で生きることをデザインし続けるということです。
子供が出来れば国境を超える移動もありえますし、本業であるナース業も副業で行っている様々な活動もそれに応じで変わり続けるでしょう。
それでも、「あなたのなりたいアナタになる」をモットーに高橋奈央子は世界のどこかで活動を続け、世界中を飛び回り続けるでしょう。
そして、いつかこのプロフィールを読んでくださっているあなたとも、世界のどこかでお会いしたいと思っています。
最後に、高橋奈央子からあなたへ一言。
人生は長いようで短いのです。それは、「会社を辞めたらハワイにでも移住しよう!」が口癖だった父が58歳で他界した時や、高橋奈央子が10歳で悪性リンパ腫を患いって死にかけ、周りの子どもたちが気づけば亡くなっているという入院生活を通して感じたことです。
「いつかやろう」のそのいつかは来ないかも知れない。だから、今やる。今しかない。
By 高橋奈央子
高橋奈央子が常日ごと、行動!行動!行動あるのみ!と言うのは、そんな経験からです。あなたのやりたいことは、この限りある人生で実現しましょう!
「あなたのなりたいアナタになる」を実現したいのであれば、ぜひ高橋奈央子とつながってください。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
高橋奈央子